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霜月文庫

確かな理論、確かな実践。

「海上輸送戦」補足~ヒ号船団・松輸送・竹輸送など

はじめに

動画「海上輸送戦」の補足です。

海上輸送戦 第2部 by 霜月みかん 歴史/動画 - ニコニコ動画

海上輸送戦―戦時輸送船団小史― - YouTube

輸送船団全般

各月の(普通海難を含む)喪失船腹量[海上労働協会 pp.9-11]と、使用先別船腹量[大井 pp.444-447]を示す。なお、これらの数値は出典はいずれも船舶運営会である。

また、赤線は船団の航行実績を示している。これは、宮本[pp.104-128]による一般船団のうち、全滅しなかった船団について、その出発港と到着港を結んだものである。したがって、経由した港は基本的に省略されており、実際の航路とは異なる。なお、月ごとに表示するために、その月に出港した船団を表示している。また、画面の都合から、南方の輸送船団に絞って表示している。つまり、独航船や、千島・アリューシャン方面の船団については表示していない。

各船団については、駒宮[1987][1995]が詳しい。また、宮本[2009]によってまとめられている。

群狼作戦

ウルフパック戦術とも呼ばれる。数隻の潜水艦が群れとなって船団を襲う戦術。1941年ごろからドイツ潜水艦隊に用いられ、アメリカ海軍では1943年3月から実戦に採用した。アメリカ海軍の魚雷の改善も相まって、輸送船団の被害は増大した。[大内 2010 pp.41-43]

ヒ号船団

1943年7月から始まった、門司とシンガポール(昭南)を結ぶ資源輸送船団。ヒ船団とも呼ばれる。資源だけでなく、兵員や補給物資の輸送も行われた。なお、門司からシンガポールの船団には奇数、シンガポールから門司への船団には偶数の番号が振られた。本作品では、ヒ号船団の動向を主軸として、戦時海上輸送の流れを追っていく。ヒ号船団の歴史については、岩重[2011 pp.80-97]が非常に詳しい。

戦時標準船

戦標船と略される。艤装の統一や、工程の短縮などによって、効率的に建造できるようにした船舶である。このうち、第2次戦時標準船は1943年7月以降に起工され、建造速度を上げるために徹底的に工程が省略された。そのため、二重底も廃止され、船の強度は低下した。このように粗製濫造された戦時標準船は、船員たちに「轟沈型」と呼ばれることもあった。戦時標準船については、大内[2010 pp.78-96]や林[pp.229-245]を参考にした。

海上護衛総司令部

海上護衛総隊、護衛総隊とも呼ばれる。1943年11月15日に創設。第1・第2海上護衛隊や、各鎮守府・警備府の部隊など、海上護衛に関する部隊を統一的に指揮した[林 p.167]。また、連合艦隊と並立して設置され、海軍は、連合艦隊による敵艦隊撃滅と、海上護衛総隊による海上交通保護とを二大重要作戦任務とした[大井 p.190]。しかし、最終的には、1944年8月9日に海上護衛総司令部連合艦隊の下に編入された。[防衛庁 1971 p.301, 304-305, 425]

3123船団

1943年11月23日に横須賀を出港した船団。トラック島の基地施設への資材などを積載していた。駒宮[1987 pp.107-108]、大内[2007 pp.90-96]に詳しい。ただし、これらの文献には「第2号長安丸」が撃沈されたとあるが、実際に撃沈されたのは1944年5月10日である[宮本 p.77]ため、誤りである。

オ806船団

1943年12月18日に佐伯湾を出港した船団。目的地はパラオ。駒宮[1987 pp.117-118]、大内[2007 pp.99-105]に詳しい。この船団に参加した「空知丸」は、のちに第9次多号作戦にも参加したが、戦争を生き残ることができた。

トラック大空襲

1944年2月17~18日にかけて行われた。駒宮[1977 pp.220-221][1995 pp.192-193]、岩重[2009 pp.88-89]に詳しい。日本は総船腹量の約4%にあたる約20万総トンを失うという大打撃を被った。また、杉山元参謀総長永野修身軍令部総長が更迭された。

大船団主義

トラック大空襲の直後、ヒ40船団が潜水艦によって壊滅させられた。これまで、1船団あたり1隻程度しか護衛を付けることができなかったため、護衛を集中させるために船団を大規模化することになった。[大井 pp.202-213]

ところで、ヒ31船団(および復路のヒ32船団)は、改装空母「千歳」や艦隊決戦用の駆逐艦雪風」「天津風」(「天津風」はヒ31船団のみ)に護衛されたが、これは一時的なものである。[駒宮 1987 pp.125-126]

松輸送

1944年3~5月(松輸送以外の輸送も含むと2月末~6月)に実施された、絶対国防圏防備のための内南洋諸島への兵力輸送。関東を出発港とする東松(1~8、3特)船団と、門司を出発港とする西松(1~2)船団がある。松輸送自体は喪失船舶も少なく成功した。しかし、到着港であるパラオサイパンから、最終の目的地であるヤップやメレヨンまでの区間では多数被害が出た。また、松輸送という名を冠しない兵力輸送の船団(3503船団など)でも被害を受けている。[岩重 2011 pp.75-76]

なお、兵力輸送の第一陣である「崎戸丸」らの船団を松輸送に含めるかどうかは文献によって異なる。

松輸送は作戦輸送であるため、軍令部や連合艦隊もよく協力した。大井[p.220]は次のように述べている。

「中部太平洋作戦輸送で、軍令部が今までにないほどに多くの便宜を図ってくれるので、その波及効果のお陰で南方資源航路の護衛にも兵力を強化できるようになった。もし中部太平洋輸送がはじまらなかったら、せっかく計画した大船団集中護衛制度も、兵力と指揮官の不足で、とてもこんなに早くは軌道にのらなかったであろう」

パラオ大空襲

1944年3月30日。被害については、駒宮[1977 pp.222-223][1995 pp.193-194]が詳しい。

ミ号船団

1944年4月に始まった、ボルネオ島ミリ向けの石油輸送船団。ミ船団とも呼ばれる。ヒ船団に使用できないような、低性能なタンカーを中心に構成された。[岩重 2011 p.86]

テ04船団

海南島で産出する鉄鉱石を輸送する船団。1944年4月30日に楡林を出港。岩重[2011 pp.84-85]、駒宮[1981 pp.41-49]に詳しい。

竹輸送

1944年4月に開始された、西部ニューギニア方面への兵力輸送。少なくとも7回の船団[防衛庁 1969 p.494,508]が実施された。竹1船団はマノクワリ、ビアク方面などに兵力を輸送するものだったが、途中で多数撃沈され、ハルマヘラまでとなった。その後、ビアク島は米軍に上陸された。[大井 pp.235-239][戦没した船と海員の資料館 竹一船団]

竹1船団以外の竹輸送については、文献が少ない。

訂正

「イタリア降伏」の写真のキャプションについて、中央の人物をカステッラーノ(Giuseppe Castellano)としているが、正しくは右下の人物。なお、中央の人物はWalter Bedell Smith。

参考文献

「復刻版 日本商船隊戦時遭難史」(海上労働協会 成山堂書店 2007)
「海上護衛戦」(大井篤 学習研究社 2001)
「太平洋戦争 喪われた日本船舶の記録」(宮本三夫 成山堂書店 2009)
「戦時輸送船団史」(駒宮真七郎 出版共同社 1987)
「戦時輸送船団史Ⅱ」(駒宮真七郎 自費出版 1995)
「輸送船入門 日英戦時輸送船ロジスティックスの戦い」(大内健二 光人社 2010)
「戦時輸送船ビジュアルガイド2」(岩重多四郎 大日本絵画 2011)
「太平洋戦争のロジスティクス」(林譲治 学研 2013)
「戦史叢書 海上護衛戦」(防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1971)
「悲劇の輸送船 言語道断の戦時輸送の実態」(大内健二 光人社 2007)
「船舶砲兵 血で綴られた戦時輸送船史」(駒宮真七郎 出版共同社 1977)
「戦時輸送船ビジュアルガイド」(岩重多四郎 大日本絵画 2009)
「続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録」(駒宮真七郎 出版共同社 1981)
「戦史叢書 西部ニューギニア方面陸軍航空作戦」(防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1969)