「海上輸送戦」補足~南方資源輸送路途絶から終戦まで
はじめに
動画「海上輸送戦」の補足です。
海上輸送戦 第4部 by 霜月みかん 歴史/動画 - ニコニコ動画
飢餓作戦
1945年3月27日に開始された機雷投下作戦。関門海峡や日本海沿岸を封鎖されたため、大陸からの食糧輸送が困難になった。大内[2007 pp.314-329][2010 pp.124-127]に詳しい。
阿波丸事件
1945年4月1日、台湾海峡で緑十字船「阿波丸」が撃沈された事件。「阿波丸」は捕虜への救恤品を運ぶために安導券を交付され、病院船と同等の安全が保障された船だったが、禁止されていた軍事物資などを積み込んでいた。大内[2010 pp.195-207]に詳しい。
戦艦「大和」海上特攻
1945年4月7日、坊ノ岬沖で戦艦「大和」が撃沈された。「大和」特攻のために海上護衛総司令部は4,000トンの燃料を減らされることになり、大井篤参謀は激怒した。[大井 pp.393-397]
「天皇の浴槽」
アメリカ軍の潜水艦乗員は、日本海のことを「天皇の浴槽」と呼んでいた。1943年10月以降は敵潜に侵入されなかったが、1945年6月に侵入され、6月の間に27隻が撃沈された。[大井 pp.406-410]
日号作戦
1945年6月28日に発動された、食糧輸送作戦。本土決戦の準備に関連して、日本海側の港湾が完全に封鎖される前に、食糧・塩などの重要戦略物資を緊急輸送するもの[防衛庁 1971 p.473]。7月の海上輸送実績として、見込量60万トンに対して95万4,000トン(150%以上)を達成した[防衛庁 1975 pp.450-453]。大井[pp.410-411]、駒宮[p.11]も参照。
なお、実施の詳細については不明である。
青函連絡船の壊滅
1945年7月14~15日、北海道と青森が空襲され、青函連絡船は壊滅的打撃を被った。具体的には、旅客連絡船4隻全船および、車両連絡船10隻のうち7隻を喪失した。[大内 2010 pp.207-214]
ち号作戦
1945年6月半ば、シンガポール方面での海上交通は、仏印~マレー半島の沿岸航路を辛うじて維持している状態だった。この航路では、南方軍の最後の拠点を固めるために、シンガポールから燃料油、仏印から米の食糧輸送が行われていた[防衛庁 1971 p.481]。また、タイからシンガポールへの糧秣輸送については、海上輸送・鉄道輸送ともに難航していた[防衛庁 1976 p.427]。
そのような状況において、7月15日に実施された、仏印ハッチェンへの油輸送に成功した。この輸送は「ち号作戦」と呼ばれ、これまで幾度も失敗に終わっていたものであった。[駒宮 pp.17-19]
橘丸事件
インドネシア東方海域は、陸軍部隊が点在する状況であった。そこで、それらを集合させるために、ジャワ方面軍総司令部は陸軍病院船「橘丸」を利用して、まず、カイ諸島に駐留する部隊をシンガポールへ輸送する計画を立てた。この「橘丸」による輸送は国際法違反であったが強行された。1945年8月3日、臨検を受けたのち、モロタイ島に連行されて乗組員・将兵全員が捕虜となった。[大内 2005 pp.325-329]
羅津方面攻撃
ソ連参戦によって、1945年8月9日以降、朝鮮の羅津方面が攻撃された。大内[2004 pp.365-377]、駒宮[p.16]に詳しい。
三船殉難事件
玉音放送後もソ連の攻撃は続き、1945年8月22日、留萌沖で避難民を乗せた輸送船3隻が攻撃され、2隻が撃沈された。大内[2010 pp.214-221]に詳しい。
参考文献
「悲劇の輸送船 言語道断の戦時輸送の実態」(大内健二 光人社 2007)
「輸送船入門 日英戦時輸送船ロジスティックスの戦い」(大内健二 光人社 2010)
「海上護衛戦」(大井篤 学習研究社 2001)
「戦史叢書 海上護衛戦」(防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1971)
「戦史叢書 本土方面海軍作戦」(防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1975)
「続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録」(駒宮真七郎 出版協同社 1981)
「戦史叢書 南西方面陸軍作戦 マレー・蘭印の防衛」(防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 1976)
「戦時商船隊 輸送という多大な功績」(大内健二 光人社 2005)
「商船戦記 世界の戦時商船23の戦い」(大内健二 光人社 2004)